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大学ビッグチームの分割登録論④実際に分割登録する時の案(2)

 少人数制フットボール(フルスタイル形式)は日本では関東大学で採用された7人制と、元々アメリカで行われていた物を関西学連が導入した6人制に別れます。 関西のほうはあまり情報を集めていなかったので具体的な動向は不明ですが、関東では ・そのシーズン開始前にチームの選手登録状況で7人制に行くか元カテゴリー(大抵は3部かエリア)に所属するかを登録期限までに申告する。 ・上記の理由によりシーズンが10月に入ってから始まる事が多い(近年は医科歯科リーグのチームも入ってきているので、恐らく9月開始か?) と言った事でチームの出入りも一定数ある事から、チーム事情での参加不参加はリーグ戦運営に大きな影響がないのではないかと考えられます。 ただしこの際注意しなくてはならないのはBチームの登録年数です。 現在基本的な登録年数は「在学5年間のうちの4年」という物が使われています(関東医科しかを除く)。しかしこのBチーム制度については「実戦経験を積ませる」「講義と研究と実習で時間が取れない事をカバーする為に負荷の軽い形態にする」のが目的なので、ずっとBチームというのは筋が違います。 そこで「AB両チーム通算4年間の登録のうち、Bチームは通算3年間の登録のみを認める」という制限を加えます(AチームはBチーム期間を含めて在学5年間中4年間の登録)。 Bチームは秋季シーズンに3試合以上6試合以下の日程で試合を実施します。春季は試合をしません(Aチームと合同になる)。 なので少人数リーグは固定試合数ではなく変動試合数となります。 この結果、チームとしては若い世代で選抜チームを編成して経験を積ませる事、少人数でミッションを達成させる為の思考プロセスの開発などで経験値を積む事が出来ます。 無論運営側にはマイナス面もあります。 ・指導者数の確保の問題 ・チーム内格差の生まれないようにする為の選手のケア ・Bチーム参加がチームの義務となる事での心理的負担増 などなど…… 特に複数年Bチーム行きになった選手に対して揶揄するなどの(若気の至りとでも言うべき)チーム内格差が生まれたことで、Bチームの選手が心を傷つけることになってはいけません。そういう意味でのチームマネジメントも指導者側では負担となるでしょう。 たとえばBチームには最初の2学年のうちに必ず所属させる、とか3年制以降は選手の意思で選択させるとか、そう

大学ビッグチームの分割登録論③実際に分割登録する時の案(1)

ではどういう規模で登録すればいいかという事を考えます。 元々協会に登録しているチームをAチーム、分割後のチームをBチームと呼びます。 絶対条件として ・Bチームは秋季公式戦の予定を(不戦敗はあっても)全うする事 ・Bチームほ継続的に複数年秋季行使戦に参加する事 ・Bチームの編成がAチームに影響を及ぼす事がない事 ・秋季公式戦の間はAB間の登録変更は出来ないものとする(学生選手権は別になります) とします。 そこで基準として ・Bチームの編成(ベンチ入り)は最大40名、最低16名とする。 ・Aチームの編成(ベンチ入り)は最大65名、最低(登録ベースで)40名とする。 と借りに規定します。 このBチームの規模は、実際関東のX2や東西のX3ではよく見かける規模でもあります。 指導者やスタッフの数の問題はちょっとだけ横に置いておき、この規模でBチームの化津宇出来る場所を考えてみます。 現状登録可能な物としては ・当該地域連盟の下位リーグ(昇格無し) ・近隣地域のリーグ(オープン参加) ・別キャンパスの所在する地域のリーグ ・社会人協会の下位リーグ(昇格無し) ・プライベートリーグ ・当該地域での新人戦リーグのような形でのオープン大会 ・各地域の少人数制(関東の7人制・関西の6人制) が考えられます。 ただし、この中で問題なのは「継続的に複数年」という所で、チーム事情で参加を取りやめることになると当該秋季リーグに悪影響が出るという事を考慮すれば、「当該地域連盟の下位リーグ」とか「近隣地域のリーグ」というのは難しい所があるかも知れません。 「別キャンパスの~」というのは、北海道学連の東農大オホーツク校や東北学連の日大山形工学部のような事例です(関東のマンモス大学は地方キャンパスを持っている事が多い)。そのキャンパスに在籍していることを条件にすれば参加可能ですが、逆にAチームに復帰する時の条件付けが難しくなりそうな気がするので保留にします。 問題があるとすればプライベートリーグも課題があります。学校のサークルとして参加している所がありますが、そこは大抵設立当初に「体育会とは違う道を」という理念で始まっていると聞いた事があります(全てがそうだという訳ではない)ので、そこに体育会勢力が自分たちの都合で参加する事に、一部では面白くない感情を抱かれる方もいると思います。 なので、JPFF

大学ビッグチームの分割登録論②学生アメフトにもベンチ入り人数に制限があってもいいのでは(2)

実は他競技では似たような話がなくもなくて。 よく聞こえて来るのはサッカー。 あっちはベンチ入りが15人。紅白戦が可能な人数として26人くらいいれば1チームとして昨日しそうなんだけど、大所帯だと100人越える事がある訳です。でも登録100人中公式戦に出られるのはどうあがいても30人弱……ほとんどの選手が出番無しで学生スポーツを終えていく訳です。 確かにスポーツ競技というのはピラミッド構造、いやさもっと厳しい言い方すれば壺毒(壺の中に大量の毒虫を入れて殺し合わせ、生き延びた最後の一匹が最強の毒使いである、というアレ。似たようなのに猫とかもある)の世界ですから、切り落とされる人たちが多数出るのは致し方無い訳ですが、それは同時に「競技から嫌な形で離れてしまう」事も意味します。 もしかしたら何かのきっかけで競技を続けるきっかけが生まれるかも知れないし底辺拡充に貢献できる存在がそこから羽ばたくかも知れない訳です。 壺毒をやると、結果として「非常にストイックな環境を強要される」事を嫌ってトップチームに人がよりつかなくなって競技そのものが廃れる可能性があります。 この問題、実に20年以上前から新聞で取り上げられているんですね。 直近で話題になったものとしては流通経済大のサッカー部。 あそこも100人近い大所帯ですが、 ・関東大学リーグに参加するチーム(名義:流通経済大) ・JFLに参加するチーム(名義:流通経済大) ・関東社会人一部に参加するクラブチーム(名義:龍ケ崎ドラゴンズ) に分けてシーズンを戦っています。年に何度かチーム編成を入れ替えています(JFLと関東社会人一部は通期、関東大学は春秋制)が、それぞれの資格で天皇杯予選には出てきます(実際JFL組とドラゴンズが試合をした事例があります)。 それ以前にも市立船橋でも「選手権を目指さないけどサッカーを続ける為のクラブチーム」が設立されたというニュースを見たことがあります。 同様の取り組みとして国士舘大柔道部でも「柔道を楽しむための、国士舘大柔道部傘下のサークル」というのが作られたというのを見たことがあります。 では、同じ理屈で「多重登録を防ぎつつ、競技者が大学卒業までの間、実戦経験を積みながら無理なく競技を楽しめる」環境をアメフトでも作る事が出来ないものなのか、という疑念がふつふつと湧いているのです……あのサイドラインに大挙し

大学ビッグチームの分割登録論①学生アメフトにもベンチ入り人数に制限があってもいいのでは(1)

ずっと疑問だったので。 ライスボウルでサイドラインに並ぶ選手の数を見る度いつも疑問に思うのです 「あんなに選手って、サイドラインに存在している必要性あるのかな」 サイドラインにスタイルしている選手とは、すなわち出場機会がある選手だと思うんですよ。 ところが一試合で出場する選手の必要数って、攻守のサードチームまで作っても60人程度じゃないですか。しかもサードチームって言ったら、オープン戦で4Qの後半に出てくるくらい。本当にそんなにサイドラインに並ぶ必要が 「実戦として」 あるんでしょうか? いや精神的側面は置いておきます。そこまでの事は私みたいな部外者が踏み込んであれこれ言う事は出来ませんから。 でも、精神的側面って、アメフトに一番似つかわしくない動機付けな気がします。アメフトって合理的思考の元で最大限実力を発揮する為の努力をしているスポーツだったと思うのですから。 そういう意味で合理的な判断から「ベンチ入り人数」とか「スタッフ数」というのは ある程度上限があっても問題ない ように思うのです。 ぶっちゃけ話、学生チームのマンモスチームともなれば80人上等、関学や立命館は100人前後です。この中で秋季公式戦に出番のある人って、一試合で50人くらいだと思うんですよ。 残りの選手はベンチスタッフ兼任だとしても、ですよ。トレーナー、用具担当、コーチ補佐などの人数にしてもチームによって千差万別で、合理的な運営の元では「スタイルしている」=「実戦に戦力として投入される立場」の人って実際には55名以下だと思うのです。 つまり「怪我による入れ替え」があったとしても、サイドラインに立つ選手の数って最大で60名、コーチスタッフ(フィールドに出られないのでスタイルしない人)はサイドラインで15人、スポッター入れても20人がいいところだと思うのです。 いやさIFAFの国際試合では選手登録45人でしょ。NFLだって48~52人な訳じゃないですか。 そうなるとあれだけスタイルしていても秋季公式戦ではシーズン中に1スナップも受けない選手がチームの1/3以上は出てしまうのではないかと思う訳です。 それって「チームのために己を殺して」とか言えば格好いいけど、プレー経験の機会を得るかどうかという点においてはどうしたものか、と思ってしまうわけです。 伝聞の範囲ですが、 ・ある程度の壁に当たった選手に対して

アメフトとサッカー、どこが分岐点だったのか⑪(終)結論として アメフトが安定して盛り上がるためには

  結果論ではありますが まず子供の頃から競技をする/知る環境が違います。サッカーやバスケットは小学校の体育の中で触れ、基本的なルールを知ることが出来ます。ところがアメフトはなんとなく似ているフラッグフットボールはあってもそれでアメフトそのものの基本ルールに触れている訳ではないのです。 この点、スタートラインに大きな差が出来ている状態であったと言えます。 その上で、元々カジュアルの一端で目立ったアメフトは、母体となったアメリカン・カジュアルの衰退により足場がぐらつきました。 さらにバブル景気による「ジャパン・アズ・ナンバーワン」により「憧れのアメリカで流行っている」というそれまでのウリを失いました。 Jリーグの開幕とサッカーW杯によって「アメリカ以外にも凄い興行スポーツが存在する」という事を知ってしまいました。 最早「全米が大興奮」という惹句は人々を引きつける魅力がないのです。憧れのアメリカは既にメッキがはがれたのです。 その上で、そもそも「国外チームの興行」と「国内チームの興行」は別で、かつ「興行」と「競技経験」も全く別であると考えなくてはならないのですが、そこがアメフト側では大きく欠如しているのです。 つまりサッカーは「競技経験者は多い」し「トヨタカップは満員御礼」だったけれど、JSLは閑古鳥で「競技の未来と国際化」で危機感があった訳です。 サッカーが20年かけてロールモデルを作り上げた為に「手頃なサイズ感と努力すれば届きそうなイメージ」から多数の自治体が「J参入」を掲げてきました。 実際安易な考えで取り組んで上手く行かず撤退、チーム解散というケースは我々の見えていないところで沢山あります。そうしてJ3まで拡張された中で相当数淘汰され、リーグ創設から30年近くになってJFLまで含めて安定的な形となりました。 このロールモデルの他にもJはリーグとしての運営方針を何度となく明示して「チームが突然死しないように」対応してきていて、方針が明確です。 なので「J制覇は考えていないがチームとしてJ1に定着することで企業として安定する」目標のチームもいる訳です。 それは単に「日本代表チームとして世界に互する存在を安定的に排出する」のが目的だから許される訳です。 それに対してアメフトはどうでしょう? 関東の学生で1万規模の入場者を集める試合は、現在の制度では皆無です。以前あった

アメフトとサッカー、どこが分岐点だったのか⑩学生スポーツと社会人スポーツとプロリーグの違い

 長々と歴史背景について語ってきましたが、ここで学生スポーツと社会人スポーツ(実業団とクラブ、セミプロに細分化されますが)、プロリーグの違いについて明確にしましょう。 1.競技を取り巻く社会環境の違い ・高校以下:学校の通学圏における社会的地位。宗教側面を除いて、生活環境に溶け込んでいることとか親子代々がその学校をステータスとしているかに影響する。 ・大学:主に在学生と卒業生によるコミュニティ。戦前はアメリカのようなタウンシップがあったが巨大キャンパス化した時に地域との関係が途絶している(大学が地域のシンボル・ステータスではない)→基本遠方キャンバスが優勝しても地域でパレードすることはない。 ・実業団:原則として地域の就職先・取引先としてのステータスがある事業所城下町スタイルとその企業という「運命共同体」の社会範囲。 ・社会人クラブチーム:チームに関わる選手スタッフと、その練習グランド近郊の人たちの小さなコミュニティ。 ・セミプロ:スポンサーが練習場所を提供しているだけなので、選手の作るコミュニティが母体。 ・プロリーグ:チームの収益源となる顧客コミュニティが母体。それが地域だけとは限らない。 2.収益の確保スタイル ・高校以下と大学:学校運営費とそれにプラスして後援会寄付。基本競技での収入は無い。 ・実業団:広告宣伝費と福利厚生費。競技での収入は会社会計に入る。 ・クラブチーム:スポンサーフィーと選手の持ち出し。競技での収入は運営費に回るが大概は赤字。 ・セミプロ:スポンサーフィーと賞金。 プロリーグ:スポンサーフィーと放映権料配分等、主催試合収益。 従って現状非実業団のプロリーグ(プロアマ混在を含む)のプロチームは、自分たちが生存するために観客動員を維持しなくてはならないですが、社会人チームは原則として「スポンサーフィーの範囲で福利厚生の目的の動員」が出来ればいい訳ですから、チームの社会環境の内側で処理できればいい訳で、逆にその社会環境外から人に集まって貰う真剣な理由は内のです。 実にJリーグは上手く立ち上げたものです。まず経営基盤として曖昧に人を募るのでは無く「まず地元の社会に溶け込む事」を優先しホームタウンへの密着を原則としました。それまでの実業団で横行していた「福利厚生や接待のための招待券」は禁止されました(実際開幕前年のナビスコカップでは2チームが処罰さ

アメフトとサッカー、どこが分岐点だったのか⑨学生スポーツの二極化とそれに気付かない人々

 既に高校野球の商業ベース移行スは1960年代から言われている(応援ツアー等)のですが、新規開設高が優秀な人材を集めるためにスポーツを使うのが顕著になるのが1970年代。この頃から越境入学や付属校囲い込みが話題になっています。 ところがここに新聞社の思惑が入ります。既に高校野球を朝日・毎日が押さえてしまった事から読売のサッカー、産経のバレーボールがテレビ中継と供に商業化されます。 これに対して他の、特に競技人口の多いバスケットや伝統的競技の陸上・器械体操・水泳は決して商業化に行かなかった……というより五輪以外の国際大会にあまり重きを置いた宣伝をしてこなかった事と収益構造ピラミッド(中学生から日本協会傘下に加盟させてその登録料で頂点の代表選手の派遣に宛てる構造)が出来上がっていたので、高校レベルでは商業化は進みません。 大学はというと、NHKが日本選手権の放映権をキープする事と戦前のラジオ少数時代、テレビの少数時代に放映権を取った事で野球の早慶戦、ラグビーの早明戦はNHKがキープしていて、そのほかの大学選手権もNHKしか放送しようとしてこなかった経緯があります。 それを最初に覆したといっていいのが、実は甲子園ボウルです。 元々甲子園ボウルの中継はずっとNHKがしてしましたが、後援は毎日新聞大阪本社です。ちょうどカレッジボウル等アメフトを新しいスポーツの柱にしようとしていたフシがあるようで、この関係から甲子園ボウルの中継を切り替えて全国放送するようになったのです。 ※但し既述の通りバブル後にアメリカ側の制度変更によりカレッジフットボールを手放し、NFLは読売に興行権を取られる状態でした。というかバブル期から大手5紙の中で一番部数を落としているのが毎日なんですが…… しかし既に説明してきたように「高卒実業団」ラインと「大学」ラインが別継投で存在して「大卒相当の年齢で引退」という環境ではスポーツのコンテンツ化はあまり上手く進みませんでした。 それをさらに覆したのが、元々読売新聞が後援していた「箱根駅伝」の全行程中継です。これにより世界的にも超マイナーな「駅伝」が日本では特別なコンテンツになってしまった訳ですが……しかも一地域の強化大会があたかも最高峰のような扱いを売れますけどね。 この結果「スポーツで目立つことで優秀な学生を集める」事と「卒業生を実業団に就職させること」で大

アメフトとサッカー、どこが分岐点だったのか⑧バブル景気とITバブルとリーマンショック

アメフトにとってバブル景気は追い風であると同時に競技年齢に変化を与えました。 実はバブル景気の際に金融業のチーム(もともと三和銀行は東日本実業団だったが、そこに1985年に三菱銀行、1986年に三井銀行、1987年に住友銀行と日本興業銀行)商社系(1983年に住友商事と伊藤忠、1984年に三井物産、1985年に丸紅、1987年に三菱商事)など、1990年に様々なチームが爆発的に加盟した事で、「大学4年間で終わる競技」から「社会人として数年間、やり残したことが出来る競技」に変わっていった事です。 ただここで、従来の競技との違いがあります。 それは、アメフトの社会人は「地域に密着した企業が少ない」という事です。他競技の実業団のように「企業城下町に拠点があり、地域住民の子弟が就職して関係をもってくれる」所が殆ど有りません。これが後に響いてくるのですが、それはもう少し後で。 ※実際NECは子会社がやっていたし日産も販売会社がやっていた。三和銀行と住友銀行は本店が大阪だし……。 さてバブル景気で一気に競技の頂点が今までよりも広がった訳ですが、アメフト人気は基本「京大が日本選手権に出る」というその一点で注目されてしまいました。 ついでに社会人はライスボウル5回連続でレナウンです。 この中継の扱いも酷くて、京大が出た時は試合の全部を放送しましたがそれ以降は1Q途中からの放送(しかも「新春演芸会」が優先される)。フルサイズになったのは東京ドームになってからです。 関西も爆発的な人気になったのは「涙の日生」つまり京大が関学の対抗馬になってからなんですね。 そんなバブル景気ですが、関東では私が観戦に行き始めた1993年シーズンの時点でまだ「トップリークが全試合有料会場ではない」のです。これは使える会場が極端に少ない上に試合数が多いため「天然芝スタジアムで利用を断られる」という事態になっていたからです。 故にメインスタジアムが土の「駒沢第二球技場」と「駒澤補助球技場」だった訳です。 これが変わったのは川崎球場からロッテ球団が撤退した事で、折角人工芝化したにもかかわらず使い道が無くなった川崎球場がアメフトを招致した訳です。 結果として川崎球場で1日4試合とかい凄いスケジュール(朝11時から夜10時まで)で日程を消化するのですが、これが理由で関東は「1Q12分」を選択せざるを得なくなりました

アメフトとサッカー、どこが分岐点だったのか⑦アマチュアスポーツのセミプロ化と国際化(3)

 ラクビーは当時、ドラマ『スクールウォーズ』と早明戦ブーム、大東文化大のトンガ留学生による隆盛などで国内でも突出した人気を誇っていました。 ※但し関西はこの頃「京大旋風」でアメフトが盛り上がっていましたので、この事を別次元と捉えているようですが、少なくとも同志社が衰退した事で関西ラグビー熱はアメフトに取られたと思っています。 ところが、これもNHKが独占放映権を取ったラグビーW杯の予選プール。秩父宮でウェールズとの接戦で自信を付けていた(というかそこから進歩していなかった)日本は、新日鉄釜石とか神戸製鋼か東芝といった社会視線強豪を軸にチームを構成した物の、全3試合で圧倒的大敗を喫してしまうのです。 ※ただし注意しとくと、少なくとも前2回も大敗していて、第2回で1勝しただけであったのですが、そういった事は全く報道されませんでした。 そもそもラグビーはブリテン島対抗(イングランド・スコットランド・ウェールズ・アイルランド4協会)とフランスを加えた「5ヶ国対抗」(現在はそこにイタリアが加わって6ヶ国対抗になっている)を中心とするグループと、南太平洋+南アフリカのグループに別れていた訳です。 これを統合して世界一を決めるという動きが出てきたのがW杯で、他の競技に比較して歴史が浅い大会だったのですが(この第3回の南アフリカ大会は、アパルトヘイトの廃止と人種宥和政策によって全てのスポーツが国際社会復帰に至った最初の大会だったのです)、あのすさまじき決勝を見てしまうと冷めるよね、という事で一気に人気が下降線をたどったのです。 いや実際あの翌年から早明戦見にいかない風潮が駿河台キャンパスで広がったものね。 その頃頼みのバレーボールもキューバやブラジルのパワー系の台頭で日本が全く勝てなくなったので人気が低迷。国際大会の引き受け手がないので毎大会日本で開催するも、とにかく実績作りの為にジャニーズの若手をハーフタイムに起用するといった奇策(最初は忍者-今の少年忍者ではない-から始まり、V6なんてこの大会用にデビューした訳ですから)に出るしか無かった訳です。 こうして国際化の流れの中で次第に後れを取るようになった事で、スポーツへの興味が薄れていく事になったのは事実です。 だけれども、大きな大会は客が入るので、そこに目を奪われがちになって「そんなこたあないよね」と感じてしまう事になるのです。

アメフトとサッカー、どこが分岐点だったのか⑥アマチュアスポーツのセミプロ化と国際化(2)

 サッカーに関してはよく川淵さんガーという人が居ますが、実はそれ以前に長沼・岡野ラインが足固めして(実務は木之元さんが一手に背負っていた)、その最後の方針を堅持して邁進したのが川淵さんなので、そこを履き違えると話が見えなくなります。 さて、この選手のプロ化というのは、実は「実業団として選手を囲い込む」事に対して少しずつ流れが変わることになってくるのです。 というのも、実はロス五輪以降海外の試合は「賞金の高額化による有力選手の確保」がメインとなりますが、日本はアマチュア規定があって賞金と副賞は選手が受け取れないルールになっていたのです(アマチュア=競技で稼ぎを得てはいけない)。これが後々いろんな局面で日本のスポーツ後進国化に拍車をかけることになります。 ※現在国際大会でプロが出場できない競技にアイススケートとボクシングがありますが、アイススケートは国際的に選手が賞金と副賞を受け取ってもアマチュアです。 これは現在NCAAで「その利益を直接選手に配分すべき」という議論にも落ちてきているのですが、よくよく考えてみれば、国際的にも「高校相当を卒業したら社会人枠」という社会環境が徹底されている訳です(これは欧州型大学の観念と北米型大学の観念が異なる為でもありますが、よくよく考えてみれば4大スポーツの中で大卒しか雇用しないのはアメフトだけなんですよね)。 さらに考えてみれば北米型大学スポーツって「奨学金貰うしトレーニングは無料だし食事も寮も無料だし奨学金のお陰で授業料免除」って事はこれ報酬受けてるのと同じで、実質的にはセミプロなんですよね。 そういう意味で日本の高校スポーツのメジャーどころも同じなんですけどねー。そういう所はだあーれも見て見ぬ振りなんですよねー(棒読み) サッカーのプロ化は次第に日の目を見ます。まずはメキシコ大会最終予選。日本より先にプロリーグを発足させていた韓国に「2戦で得失点差で上回ればW杯」という所まで来た(有名な木村和司の伝説のフリーキックの試合)上で、次のアメリカ大会予選でのドーハの悲劇に繋がります。 それと同時に外国籍選手(当初はセルジオ越後や与那嶺ジョージのような日系人、やがて外国人選手)の参入と同時に子供向けのサッカー教室を定期的に全国で開催することで、正しい記述の習得と競技の理解度を高める事に尽力してきました。 それと同時にW杯メキシコ大会から

アメフトとサッカー、どこが分岐点だったのか⑤アマチュアスポーツのセミプロ化と国際化(1)

前段で触れたように、高卒実業団組と大学4年間組は、ある意味同等の規格で立ち向かえるという格好にはなっています。 しかしここで問題になるのは「戦う相手」の存在です。 1つには高卒実業団組は早い段階で「外国籍選手」と相対する事になりますが、大学組にそれはありません。 マラソンの試合の格を上げようとすると、海外招待選手を呼ばねばならず、その結果「実は五輪代表から見ても格下」な選手とでも勝てない試合を組むことになる訳です。 ※この格の維持に付き合わなかった為に格下げされたのが別大マラソンで、付き合った結果他の大会に勝てず消滅するのがびわ湖マラソン。どっちも後援が毎日新聞というのがなんとも。 サッカーはというと、メキシコ五輪のメダル獲得の後、実はアマチュアリズムが邪魔をして海外に勝てなくなっていった訳です。 それと同時に1970年代には国際航空網の整備により選手の移動が簡便になると、プロ選手の国際的移籍が活発になってきた訳です。 その1つのピークとなるのがW杯西ドイツ大会です。 2年前にミュンヘン五輪があったのですが、NHKの西田アナが現地取材に行くとミュンヘンに大きなスタジアムが建設中で、タクシーの運転手が「あれは2年後のワールドカップ用に新造しているんだ」と得意げに言ったというのです。西田アナは「たかが1競技の国際大会が五輪を差し置いて何を」と憤ったと回述されていますが……。 しかし2年後取材に来て圧倒されたといいます。 この後のモントリオール五輪が大赤字(モントリオール市は35年間の借金を払い続けた)で、これが原因で84年のロサンゼルス五輪から商業化に舵を切った訳ですが(80年モスクワについては、その後の北京五輪共々「国家社会主義体制での国威高揚」と「放映権による外貨獲得」の為の大会だった訳で、それに乗っかってテレビ朝日が独占中継権獲得しといてボイコット騒動で大赤字になったのは有名な話で、以降日本はジャパンコンソーシアム体制を取っている訳です-それをAFCの独占放映権で崩したのがテレビ朝日。この結果サッカー中継の質がテレビ朝日と日テレ寄りになってかなり低くなったのは事実です-)、 実際の所この西ドイツW杯によってアメリカに北米サッカーリークが出来た訳です(すぐに潰れたけど)し、かなりプロ選手という存在が商業ベースで世界的に活躍することが出来たという流れになるのですが、日

アメフトとサッカー、どこが分岐点だったのか④そもそもスポーツの発展とは(3)

 日本に於ける海外への意識というと、海外渡航自由化の問題と移動手段の問題で大きく左右されますが、戦前は西欧諸国(主にドイツとフランス)が主で、アメリカが出てくるのはあまりにも有名な「トリスを飲んでハワイに行こう」からで、海外渡航自由化になって初めてアメリカ行き旅客飛行機運航に繋がった訳ですが、正直国際為替相場で円ドルレートが1ドル=360円固定だった頃にはまだ意識としては「憧れのハワイ航路」なのですよ(これ重要ね)。 ところがその頃にはサッカーはメキシコ五輪で銅メダルを獲得している訳です。 そしてこの後、サッカーには海外チームでのプロ選手が出てくる訳です。まあ佐田繁里さん(香港リーグ:NHK有馬キャスターが「あぽーん」とした顔になった事で有名だが、歌手さだましの実弟)はともかくとして奥寺が1977年には当時世界最強と言われたドイツ・ブンデスリーガに移籍して活躍する訳です。 バレーボールも「東洋の魔女」の頃から女子は世界最強のソヴィエト連邦に勝ち続け、札幌五輪では「日の丸飛行隊」が金メダルを取るなど多くの競技が世界と互角に戦うことになる訳です。 さらに、70年安保と新宿騒乱が世間から総スカン食らった事で学生運動が収束すると同時に、1960年代に若者文化として始まったアメリカン・カジュアル(昭和50年代まではヴァンジャケットの仕掛けたIVYルック、昭和60年代はインポートカジュアル)と、輸入青春ドラマのブームによって「アメリカの若手文化」が一気に広がり、その過程でアメフトという文化(競技ではない)も日本に入ってきた訳ですよ。 ※1970年と言えばアメフト専門誌「Touchdown」創刊。 ところが、社会的に言うと「昭和50年」が一つの大きな区切り線になる訳です。公式に「日本国内の外国統治地域」が制度上完全に無くなった(小笠原返還と沖縄返還を指す)上で「沖縄国際海洋博」が行われた事。既に浅間山荘事件やよど号事件を踏まえて赤軍過激派が国内で威力を弱めてきた(そのあとも連合赤軍や中核派は活動するが革マル派はマイルド化した)などを経て、だいぶ「アメリカ」に対する印象が変わってきた訳です。 さらに戦後復興による保護関税の優遇が農家や小規模工場のを潤し子供達の進学率が上がってきた事と同時に高等教育の進学先が新設されることになります。 こういう中で経済発展から「本場のスポーツを呼ぼう

アメフトとサッカー、どこが分岐点だったのか③そもそもスポーツの発展とは(2)

 この頃、都市部郊外では増えてきた人口に対応すべく農家が土地を宅地にして売却する「土地成金」が発生し、生活に余裕が出来たことで子弟を高校へ進学させることが増えてきた訳です。よって高校も新設が相次ぐのですが、ここで手っ取り早く目を引くためにスポーツで目立つことが対象に上がってきた訳です。 この時まず高校総体でトップになる事と甲子園に出る事がメインテーマになった訳です。 そこで指導者が少なくても簡単に(格闘技ほど競技中に重篤な怪我が出ないというニュアンスも含める)できるスポーツとして上がったのが「バレーボール」であり「サッカー」だった訳です。 1950年代までのサッカーは体力勝負個人技勝負だった事はよく知られています。そこへ東京五輪でメダル獲得を目指して、初めて外国人指導者であるクラマー監督を招聘して、ここで初めて戦術的サッカーが導入される訳です。 それと同時に「社会人の適切な運動の確保」と「オリンピック招致の為に色々なスポーツの理解を深める」のを目的に、文部省・厚生省が音頭を取って「学校や職場の休み時間に、みんなでスポーツをしよう」というキャンペーンがあり、町工場でも出来る卓球やバトミントンが定着したわけです。 この流れから「地元の企業に入った高卒競技経験者が、企業の施設で就労時間後に練習して地域リーグに参加する」という、実業団スタイルが発展するわけです。 ※同時に「大学」も新設されたり定員増したりして高卒を受け入れる枠が出来て来ます。 この流れの中でアメフトを見てみると、昭和30年(1955)には関東6チーム関西5チーム、昭和40年(1965)には関東14チーム(1部6チーム、2部8チーム)関西6チームな訳です。 いやいや、この当時既にサッカーの協会選手権である天皇杯は大学チームと大学OBチームが圧倒していた訳ですから、それと比較したら競技経験者の絶対数が少ないですよ。 チーム数が爆発したの昭和45年(1970)で、この年から関東は並列リーグ化で計32チーム、関西は2部2ブロック制で計20チーム(チーム数はいずれも「日本協会60年史」から)。 実は昭和40年で切ったのには訳があって、この頃池田勇人の「所得倍増計画」から田中角栄の「列島改造計画」にシフトした事と同時に学生生活の中心が「安保闘争」にシフトしてきた事が社会生活の流れで大きな異変に繋がるといった、社会構造の

アメフトとサッカー、どこが分岐点だったのか②そもそもスポーツの発展とは(1)

 まあこれはざっくりまとめた、かつ、かなり色々ザッピングした情報をまとめたものなので、エビデンスを示せるものではありません。 そもそもスポーツ観戦というのは、六大学野球を軸に戦前から「おらが街の代表が」という方向性があったと思われます。その頂点が「甲子園の高校野球(戦前は中学野球)」な訳です。ちなみに大相撲でも「おらが街の力士様」に声援が飛ぶわけですよね。 ところが、この「競技を楽しむ」という思想は日本の教育史上あまり重要視されていなくて、どっちかというと「体育教練」つまり「富国強兵に通ずる成長促進とマスゲーム的機能をベースにした指揮命令形の徹底遵守」に重きを置いてきた所があります。 これは指導者の質が低いときに「高圧的統制」を布くことで管理してしまうと言う、日本的教育の悪い面に通じてしまうのですがまずおいときます。 ※五輪競技にフォーカスした体育教育の発展は「国際大会に折れる国威高揚」が中心にあった訳で、大河ドラマ『いだてん』はそこをライトにして「関わってきた人の意地と競技愛」にフォーカスしているけど、昭和一桁生まれの父や、明治生まれの祖父の話では、体育は教練主体で「いろんな競技を体験して子供達に選択肢を与える」ような昨今の体育教育とは異なったと言います。 さらに、戦前の旧制教育のように4・2・6・4(2+4)制度の中では、尋常小学校卒で就職、というのが明治時期の一般(旧制中学に行ける時点で相当絞り込まれている)であったと祖父は言いした。田舎の農村では高等小学校すら行けなかったのです。 ※故に大正時代の小説に出てくる「不良少年」というのは、本当に10歳くらい奴がシケモク吸っていたそのままの姿なんですね。 したがってまず競技指導者がいない。いても軍事教練系の在郷軍人か警察官しかない訳です。せめて教職員が学生時代に経験したというのがメインで、そこにあった競技は野球と陸上くらいしかないわけです。(サッカーもそんな感じだが、目立つのは大正期からっぽい) ※正規の教職員資格を持った教員の総数が少ないために「代用教員」という制度が、昭和30年代までは存在しました。 こういった事から、所謂娯楽的競技については、戦前に欧州留学した人が触れた競技が持ち帰られるか、明治時代に海外移民した人たちの子供達が日本に戻って伝えた競技くらいしかなかった訳です。 しかもそこには明治時代に「アメリ

アメフトとサッカー、どこが分岐点だったのか①前説

 Facebookのコミュニティ「日本のアメフト復興会議」のある話題の中で、こんな質問を受けました。 「昔社会人アメフトの試合を見にいった時、隣でJSL(当時)の試合やってて、こっちの方が客の入りが良かったのに、今は逆になってます。どこで差が付いたんでしょうか」 これについて私見をまとめるために、こちらの「すこし長めの呟きの保管庫」に記事を発表します。 なぜFB上でやらないのかというと、 他人の発言スレッド内で、発言者の趣旨と異なる方向へ枝が伸びるのは、元発言者に対して失礼だから。 はっきり言って現在の「日本のアメフト復興会議」のライブ発言者の傾向として、この発言が長く続くと邪魔くさい存在になるため。 自分の投稿がただでさえ字数が多いのに、さらに説明が長くなる上に必要以上に注釈解説が入ることによって、やったら画面ヅラが黒くなって読んで貰えそうにないから。 といった事情を鑑みた為です。 じゃあ自分の元々もっているサイトでやりゃいいじゃん、という事にはなるのですが 文字コードの都合上サムネイルが出て来ない。 昔のトラブルの影響であんまり大々的に宣伝したくない気持ちが強い。 サーバとか回線の設定の都合で、ここの所表示が鈍足なので観る人がイライラするだろうから。 自宅の自作サーバなので、リプライ機能が無いので対応出来ない。 自宅メールサーバが不調でメールを受け取ることが出来ない。 といったかなり消極的な理由で安定してかつ公開可能でコメント設定が可能なこちらを利用します。 なお、これから書くことは飽くまで私本人が「色々考えていた時に、なんとなく腑に落ちた」内容なので、新しい知識が入ったらアップデートされる内容でもあります。数年後に宗旨替えしてるかもしれませんので、そこはご理解下さい。