アメフトとサッカー、どこが分岐点だったのか②そもそもスポーツの発展とは(1)

 まあこれはざっくりまとめた、かつ、かなり色々ザッピングした情報をまとめたものなので、エビデンスを示せるものではありません。

そもそもスポーツ観戦というのは、六大学野球を軸に戦前から「おらが街の代表が」という方向性があったと思われます。その頂点が「甲子園の高校野球(戦前は中学野球)」な訳です。ちなみに大相撲でも「おらが街の力士様」に声援が飛ぶわけですよね。

ところが、この「競技を楽しむ」という思想は日本の教育史上あまり重要視されていなくて、どっちかというと「体育教練」つまり「富国強兵に通ずる成長促進とマスゲーム的機能をベースにした指揮命令形の徹底遵守」に重きを置いてきた所があります。
これは指導者の質が低いときに「高圧的統制」を布くことで管理してしまうと言う、日本的教育の悪い面に通じてしまうのですがまずおいときます。
※五輪競技にフォーカスした体育教育の発展は「国際大会に折れる国威高揚」が中心にあった訳で、大河ドラマ『いだてん』はそこをライトにして「関わってきた人の意地と競技愛」にフォーカスしているけど、昭和一桁生まれの父や、明治生まれの祖父の話では、体育は教練主体で「いろんな競技を体験して子供達に選択肢を与える」ような昨今の体育教育とは異なったと言います。

さらに、戦前の旧制教育のように4・2・6・4(2+4)制度の中では、尋常小学校卒で就職、というのが明治時期の一般(旧制中学に行ける時点で相当絞り込まれている)であったと祖父は言いした。田舎の農村では高等小学校すら行けなかったのです。
※故に大正時代の小説に出てくる「不良少年」というのは、本当に10歳くらい奴がシケモク吸っていたそのままの姿なんですね。

したがってまず競技指導者がいない。いても軍事教練系の在郷軍人か警察官しかない訳です。せめて教職員が学生時代に経験したというのがメインで、そこにあった競技は野球と陸上くらいしかないわけです。(サッカーもそんな感じだが、目立つのは大正期からっぽい)
※正規の教職員資格を持った教員の総数が少ないために「代用教員」という制度が、昭和30年代までは存在しました。

こういった事から、所謂娯楽的競技については、戦前に欧州留学した人が触れた競技が持ち帰られるか、明治時代に海外移民した人たちの子供達が日本に戻って伝えた競技くらいしかなかった訳です。

しかもそこには明治時代に「アメリカといえば野球」という刷り込みがあり、ブリテン島由来のラグビーとかクリケットは少数派、アメフトやバスケは立ち後れたというしころのようです。
※アイスホッケーはなぜだか満州で流行っていたと、昔産業医してた方から聞いた。

この流れはじつは戦後暫く変わって無くて、節目となったのは高度経済成長と東京五輪だった訳です。
というのは、戦後の財閥解体と護送船団方式ににより、特定企業の規模拡大が進むことで「地方に大型工場が設立」され、6・3・3・4制の中卒が安定就職できる場所が地方に生まれた事と、地方農家の三男以降(長男が農家を継ぎ次男が地元企業に就職する)が集団就職で都市に流入する事で、都市部の労働人口が爆発的に増えてきた訳です。
逆に過剰人口の就労先として機能していた軍隊が廃止された(一応経済学的な見地の表現ですので、戦争肯定という意味ではない事にご注意を)事から「さまざまな社会範囲の変遷」と「土地成金」、「保護貿易下における地方の高収入」などの要素が一気に入ってきたからです。

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