アメフトとサッカー、どこが分岐点だったのか④そもそもスポーツの発展とは(3)

 日本に於ける海外への意識というと、海外渡航自由化の問題と移動手段の問題で大きく左右されますが、戦前は西欧諸国(主にドイツとフランス)が主で、アメリカが出てくるのはあまりにも有名な「トリスを飲んでハワイに行こう」からで、海外渡航自由化になって初めてアメリカ行き旅客飛行機運航に繋がった訳ですが、正直国際為替相場で円ドルレートが1ドル=360円固定だった頃にはまだ意識としては「憧れのハワイ航路」なのですよ(これ重要ね)。

ところがその頃にはサッカーはメキシコ五輪で銅メダルを獲得している訳です。

そしてこの後、サッカーには海外チームでのプロ選手が出てくる訳です。まあ佐田繁里さん(香港リーグ:NHK有馬キャスターが「あぽーん」とした顔になった事で有名だが、歌手さだましの実弟)はともかくとして奥寺が1977年には当時世界最強と言われたドイツ・ブンデスリーガに移籍して活躍する訳です。

バレーボールも「東洋の魔女」の頃から女子は世界最強のソヴィエト連邦に勝ち続け、札幌五輪では「日の丸飛行隊」が金メダルを取るなど多くの競技が世界と互角に戦うことになる訳です。

さらに、70年安保と新宿騒乱が世間から総スカン食らった事で学生運動が収束すると同時に、1960年代に若者文化として始まったアメリカン・カジュアル(昭和50年代まではヴァンジャケットの仕掛けたIVYルック、昭和60年代はインポートカジュアル)と、輸入青春ドラマのブームによって「アメリカの若手文化」が一気に広がり、その過程でアメフトという文化(競技ではない)も日本に入ってきた訳ですよ。
※1970年と言えばアメフト専門誌「Touchdown」創刊。

ところが、社会的に言うと「昭和50年」が一つの大きな区切り線になる訳です。公式に「日本国内の外国統治地域」が制度上完全に無くなった(小笠原返還と沖縄返還を指す)上で「沖縄国際海洋博」が行われた事。既に浅間山荘事件やよど号事件を踏まえて赤軍過激派が国内で威力を弱めてきた(そのあとも連合赤軍や中核派は活動するが革マル派はマイルド化した)などを経て、だいぶ「アメリカ」に対する印象が変わってきた訳です。
さらに戦後復興による保護関税の優遇が農家や小規模工場のを潤し子供達の進学率が上がってきた事と同時に高等教育の進学先が新設されることになります。

こういう中で経済発展から「本場のスポーツを呼ぼう」という機運が上がってくるのも当然で、日米野球・日米大学野球の他にサッカーのトヨタカップ、テニスのデビスカップなどがあり、その延長線上でジャパンボウルとミラージュボウルが決まった訳です。
ちなみに、これらは新聞社の顧客獲得ツールでもあって、新聞販売店から契約家庭に値引き販売していた訳です。
なので、当時の海外チーム招待試合における満員の観客の大半は「アメフト愛がない人」だった訳です。しかも新聞社としてはメンツがあるから空席を作れないので、スポンサー各社にもチケット買い取らせていた訳です(アメフト以外でも、よくあった話です)。従ってスポンサー社内で裁ききれない物は取引先に売りつける事になります。実際コカコーラボウルは姉の会社が「福利厚生で契約しているプレイガイドに買い取りさせられて社内で値引き販売していたチケット」で一度行ってます。

したがってここで「コカコーラボウルやジャパンボウルと比較して……」という比較があんり効果無い事を指摘しておきます。

じゃあ他の競技はどうかというと、例えば天皇杯は昭和40年代には既に社会人優勢の時代だったし、ラグビーは新日鉄釜石7連覇の時代だったわけです。この主力の大半は高卒社会人です。※ラグビーは途中から大学卒がメインになったが、連覇が始まった頃は高卒中心。
また陸上競技も旭化成のように地元高校生中心のチームが強豪だった訳ですよ。

また野球にしても神宮のスター(長島、法政三羽烏など)が相次いでプロ野球に加盟したことで大学野球よりプロ野球がメインになったというのは有りますが、今でも高卒がチームの中心ですよね。

そういう事を考慮すると、高卒実業団の環境が大学4年間よりもスポーツ文化の発展に貢献していることが見て取れます。

そういう意味では競技を専門的に指導されてきた高卒組が地元に就職する事で、地域の子供達の指導役に回っている事も影響していると思います。

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