アメフトとサッカー、どこが分岐点だったのか③そもそもスポーツの発展とは(2)

 この頃、都市部郊外では増えてきた人口に対応すべく農家が土地を宅地にして売却する「土地成金」が発生し、生活に余裕が出来たことで子弟を高校へ進学させることが増えてきた訳です。よって高校も新設が相次ぐのですが、ここで手っ取り早く目を引くためにスポーツで目立つことが対象に上がってきた訳です。

この時まず高校総体でトップになる事と甲子園に出る事がメインテーマになった訳です。

そこで指導者が少なくても簡単に(格闘技ほど競技中に重篤な怪我が出ないというニュアンスも含める)できるスポーツとして上がったのが「バレーボール」であり「サッカー」だった訳です。

1950年代までのサッカーは体力勝負個人技勝負だった事はよく知られています。そこへ東京五輪でメダル獲得を目指して、初めて外国人指導者であるクラマー監督を招聘して、ここで初めて戦術的サッカーが導入される訳です。

それと同時に「社会人の適切な運動の確保」と「オリンピック招致の為に色々なスポーツの理解を深める」のを目的に、文部省・厚生省が音頭を取って「学校や職場の休み時間に、みんなでスポーツをしよう」というキャンペーンがあり、町工場でも出来る卓球やバトミントンが定着したわけです。

この流れから「地元の企業に入った高卒競技経験者が、企業の施設で就労時間後に練習して地域リーグに参加する」という、実業団スタイルが発展するわけです。
※同時に「大学」も新設されたり定員増したりして高卒を受け入れる枠が出来て来ます。

この流れの中でアメフトを見てみると、昭和30年(1955)には関東6チーム関西5チーム、昭和40年(1965)には関東14チーム(1部6チーム、2部8チーム)関西6チームな訳です。
いやいや、この当時既にサッカーの協会選手権である天皇杯は大学チームと大学OBチームが圧倒していた訳ですから、それと比較したら競技経験者の絶対数が少ないですよ。

チーム数が爆発したの昭和45年(1970)で、この年から関東は並列リーグ化で計32チーム、関西は2部2ブロック制で計20チーム(チーム数はいずれも「日本協会60年史」から)。

実は昭和40年で切ったのには訳があって、この頃池田勇人の「所得倍増計画」から田中角栄の「列島改造計画」にシフトした事と同時に学生生活の中心が「安保闘争」にシフトしてきた事が社会生活の流れで大きな異変に繋がるといった、社会構造の変化の第二段に至るわけです。

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