アメフトとサッカー、どこが分岐点だったのか⑧バブル景気とITバブルとリーマンショック

アメフトにとってバブル景気は追い風であると同時に競技年齢に変化を与えました。

実はバブル景気の際に金融業のチーム(もともと三和銀行は東日本実業団だったが、そこに1985年に三菱銀行、1986年に三井銀行、1987年に住友銀行と日本興業銀行)商社系(1983年に住友商事と伊藤忠、1984年に三井物産、1985年に丸紅、1987年に三菱商事)など、1990年に様々なチームが爆発的に加盟した事で、「大学4年間で終わる競技」から「社会人として数年間、やり残したことが出来る競技」に変わっていった事です。

ただここで、従来の競技との違いがあります。
それは、アメフトの社会人は「地域に密着した企業が少ない」という事です。他競技の実業団のように「企業城下町に拠点があり、地域住民の子弟が就職して関係をもってくれる」所が殆ど有りません。これが後に響いてくるのですが、それはもう少し後で。
※実際NECは子会社がやっていたし日産も販売会社がやっていた。三和銀行と住友銀行は本店が大阪だし……。

さてバブル景気で一気に競技の頂点が今までよりも広がった訳ですが、アメフト人気は基本「京大が日本選手権に出る」というその一点で注目されてしまいました。
ついでに社会人はライスボウル5回連続でレナウンです。
この中継の扱いも酷くて、京大が出た時は試合の全部を放送しましたがそれ以降は1Q途中からの放送(しかも「新春演芸会」が優先される)。フルサイズになったのは東京ドームになってからです。

関西も爆発的な人気になったのは「涙の日生」つまり京大が関学の対抗馬になってからなんですね。

そんなバブル景気ですが、関東では私が観戦に行き始めた1993年シーズンの時点でまだ「トップリークが全試合有料会場ではない」のです。これは使える会場が極端に少ない上に試合数が多いため「天然芝スタジアムで利用を断られる」という事態になっていたからです。
故にメインスタジアムが土の「駒沢第二球技場」と「駒澤補助球技場」だった訳です。
これが変わったのは川崎球場からロッテ球団が撤退した事で、折角人工芝化したにもかかわらず使い道が無くなった川崎球場がアメフトを招致した訳です。

結果として川崎球場で1日4試合とかい凄いスケジュール(朝11時から夜10時まで)で日程を消化するのですが、これが理由で関東は「1Q12分」を選択せざるを得なくなりました。

さてバブル崩壊は社会人の、特に下部リーグの撤退が頻発する事になります。実際にはクラブチームのスポンサーの撤退も横行していましたが、実業団チームにダメージが来るのはこの後のITバブル崩壊のタイミングでしょう。
ただしNECはちょっと事情が違うのですが(金鯱ボウルの試合放棄に対してチーム上層部が採用枠を廃止したため、その後なんとか頑張った物の入れ替え戦前に試合可能人数を割り込んだ為に潔く廃部したそうです-伝聞と記事による)。

こういった中で社会人のあり方を見直してより世間に訴求する為にXリーグが、平日ナイターでドームを使う形で再編されたのです。
※ドームについては、ドーム開設当時にドームから声がかかったので多少ディスカウントと優先日程があったそうだ。

ところがリーマンショックは本当に痛かった訳です。この前後からトップリーグからの撤退と合併・解散が続き、2部から分不相応なチームが日程合わせのたるに昇格してきた為に社会人の試合は大差の試合が続くようになります。

リーグスポンサーも契約更新しなかったり、とにかくダメージが大きかったのです。

同様のことは甲子園ボウルでも発生します。ITバブル崩壊と同時に全国中継が無くなり、リーマンショックの結果関東でさえ深夜枠移動です。

結果としてその後ダメージから回復できていません(関西の人はそれに気付いていないケースが多いようです。未だに関西ローカルの関西学生最終節の中継に喜んでますが、そのタイミングは他地域の大半はラグビー早明戦です)。

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